2008年7月アーカイブ
少しOLDなデザインのボタン。右足に平和の象徴のオリーブの枝。左足に闘争を表す矢。この鷲は古代ローマ共和制のシンボル。これはアメリカの国鳥,白頭鷲でしょうね。昭和の頃に着ていたブレザーから外して持っているボタンです。
昭和40年代にはtraditional styleが流行りました。おもにアメリカ東部の伝統的スタイル。トラッド。しかし,ブリティッシュトラディショナルというのもある。このあたりがよく分からない。ニュートラディショナルというのもありました。ニュートラですね。
昭和40年後半,少しお洒落なジャズ喫茶に逃げ込む真夏日には,ロングピースに火をつけ,レモネードを注文し,MEN'S CLUBを読んでいたこともありました。なんだか,アートペッパーを聴きたくなりました。
追記
このボタンをじっと見ていると,右足につかんでいるのも矢であるような気がします。ネットで色々と調べましたが,納得できる情報には巡り合っていません・・。
CD125Tのタンクに輝くホンダのロゴマーク。見慣れているデザインのようでいて,じっと見ていると,これは何だろうと考え込んでしまいます。
創業者である本田宗一郎の熱い想いから生まれたホンダのウイングマーク。そのモデルとなったのは人々に勝利を届ける勝利の女神としても有名な、サモトラケ島のニケ像。ギリシャ彫刻の傑作と言われるニケ像は、鳥類の王者で,鷲の翼を身にまとっていた・・・。「ニケ像」は現在ルーブル美術館にある。
昭和を思い出す「改源」のデザインです。このデザインは,湯飲み茶碗とそれを受ける茶托をイメージしたもので,改源は昔は「お茶でも飲める風邪薬」をキャッチとして販売しており,はっきりとした経緯は不明ですが、お茶でも飲めるという意味をこめて湯飲み茶碗にしたものと推測されます。これは,株式会社カイゲンにお尋ねして教えていただきました。
現在の用法には
「茶湯または湯水で服用してください」とあります。
改源の発売は大正13年。昭和40年には長崎出身の作詞家,藤浦洸を起用してテレビ宣伝を開始。昨年はたしか,デーモン小暮を起用していたはずです。藤浦洸さんといえば NHKの「私の秘密」で回答者として活躍されていたのを覚えています。正直な人だなと感じました。作品としては「別れのブルース」「チャイナ・タンゴ」「水色のワルツ」「河童ブギ」「悲しき口笛」「私は街の子」「東京キッド」「りんご園の少女」などが有名です。
淡谷のり子さんの「別れのブルース」では,「BLUES」についての発音が「ブルース」であるのか「ブルーズ」であるのかが話題となることがあります。初期には「ブルーズ」と歌っていたようですね。
子どものころにはほとんどこれと一緒のデザインでした。昭和レトロなちゃぶ台の上にちょこんと座っていた磯じまんです。おかずがなければ,沢庵か磯じまんです。
磯じまんが発売されたのは大正15年。現在の社名は磯じまん株式会社。大阪に本店を置く磯じまんは,やはり関西でのシェアが高い。海沿いの町でおばあさんが作る佃煮には負けるかもしれませんが,他の大手企業の佃煮よりは美味しいですよ。関東の方にお奨め。
メガネ肝油の広告です。いかにも昭和の広告です。雑誌の広告ですが,会社名が存在しません。そのレトロなデザインはどこか富山の薬にも似ています。
メガネ肝油の発売は明治17年というから,その歴史は古いです。当時,肝油は輸入されていたものですから,伊藤千太郎商会より発売されたこの肝油が初めての国産ということになります。その後伊藤千太郎商会は昭和33年にメガネ肝油株式会社となります。しかしこの広告は昭和29年の広告ですので,会社名は商品名の後から付いてきたということになります。そして昭和50年にワカサ株式会社に社名変更して現在に至っています。
メガネ肝油の「メガネ」は同社のロゴマークに由来します。明治当初にはハイカラであった鼻眼鏡を伊藤千太郎がロゴマークとして採用したからです。
本来,肝油とはその名の通り,魚の肝臓から抽出した脂のことで,ビタミンA・ビタミンDなどのビタミン群を豊富に含んでいます。肝油は昭和20年代にはスポイトで飲むのが普通だったといいます。私が物心ついた頃にはもうスポイトで飲んだという記憶はありません。小学校の頃は,夜盲症にならないために,と,肝油ドロップを食べさせられた記憶が強いです。あの頃の子どもには,確かにビタミンは不足していたかもしれません。お新香でお茶漬けをかき込んで「はい,ごちそうさま」ということがおかしくなかった時代です。「今日はおかずはないよ」という母親の声を今でも覚えています。
昭和22年に建設された料亭旅館の佇まいを眺めていると,妙に落ち着きます。レトロとかデザインとかを越えて,そこに生き続けてきた建物と人々の息遣いが聞こえてきそうな気がします。
ここは,土佐の料亭旅館「臨水」。南側を,あの坂本龍馬も泳いだと言われる鏡川が流れます。昭和40年代は貸しボート屋さんが何軒もあり,カップルのデートで賑やかでした。近くには「こどもの国」と名付けられた遊園地があり,ジェットコースターには人が並びました。時代というものなのでしょうか。今は貸しボート屋さんは一軒も無く,「こどもの国」の跡形もありません。ただ,河畔の「臨水」だけが今日も川の流れを見続けています。
昭和40年代初めでしょうか。キリンビールのレトロな灰皿です。懐かしいデザインです。ビールと言えばキリンビールだった時代です。
お使いに行かされたのは,小学生の頃。夕方になって,母親が一升瓶の中の日本酒の残りが少なくなっているのに気付いたとき。いつも五合瓶を買いに行かされました。
踏み切りを渡り,小さな路地を抜けたところに酒屋がありました。小さな酒屋には木でできたカウンターがあって,まだ外は明るいというのに,いつも一人か二人のおじさんが,小皿の上の透明のグラスになみなみと注がれたお酒を,こぼれないように気をつけながらすすっていました。そのカウンターの上に置かれていたのがこの灰皿です。

私は二級の五合瓶を両腕で抱えるようにして,来た道を戻ります。恐れたのは,途中で知らない犬に会うことです。あの頃は野良犬がまだたくさんいました。犬に噛まれることなど珍しくありませんでした。私は五合瓶を抱えたままでは野良犬から逃げきれないと思っていました。さらに顔見知りの野良犬の中にもたいそう性格の悪い奴が何匹がいました。そいつに会うと,私は知らぬふりをしてきびすを返し,遠回りして帰らなければなりませんでした。お使いに行かされて,二回のうち一回は遠回りしなければならなかった帰り道です。
鉄腕アトムが「少年」に連載され始めたのは昭和27年です。その姿はレトロなどとは縁遠く,今でも生き生きとしたデザインです。これはすごいことだと思います。
アトムがテレビに登場したのは昭和38年のこと。ほんとに一生懸命見ました。アトムの生みの親は天馬博士です。息子の飛雄(トビオ)が交通事故で死んでしまったのを悲しんで,飛雄に似せたロボットを作ります。ロボットの名前はトビオです。その後,人間とは違い,成長しないトビオはサーカスに売られ,「アトム」と呼ばれます。そして,お茶の水博士に引き取られ,色々な物語が展開していくことになります。
ところで少年漫画雑誌「少年」は思い出深いです。江戸川乱歩の「怪人二十面相」が連載されていました。明智小五郎,小林少年・・なんだか書いているだけでドキドキします。月刊誌を買うお金はありませんでした。あの頃は,図書館で読みふけりました。「ぼくら」「冒険王」なども月刊誌でしたね。
昭和初期のものでしょうか。先日ある骨董収集家の方からアンティークなデザインの小皿を撮影させていただきました。お皿そのものが中国のものか日本のものかはよく知りませんが,おめでたい図柄です。松竹梅に鶴が飛んでいます。
松竹梅の由来は
松 冬でも青く,寿命が長い
竹 冬でも青く,雪にも折れない
梅 冬の雪の中でも花が咲く
鶴については中国の故事からきています。鶴は千年ですね。
ちなみに七福神は仏教や道教に由来し,中国やインドの神様とされているけれど,唯一恵比寿さんだけが日本の神道からきています。
ところで,ネットには色々な方がいます。
面白い記事を見つけました。
鶴は千年亀は万年の由来についてですが,
鶴は千年灸 亀は万年床
長生きしても元気でなくては意味がないということ
と,ユニークな説をあげられている方がいます。これはこれですごいです。
久しぶりすごい車輌を見ました。CB450K1。世の人は昭和レトロというかも知れないけれど,私にとってはポップで最先端のデザインにしか見えない。マフラーをはじめ,色々なパーツが再メッキされています。うっとりします。CD125Tのお兄さんといった感じです。
K1は昭和43年生まれ。昭和40年発売のK0は世界各国の白バイとしても採用された名車。空冷4サイクル2気筒直立並列。お金を貯めてこの車輌を買いたいけれど,貯まった頃には売れているでしょうね・・。当時の価格268,000円。この後昭和44年にあのCB750Fourが発売されることになる。
(CB450K1諸元)
全長 2115mm
全高 1090mm
車輌重量 175kg
総排気量 444cc
最高出力 45ps/9000rpm
最大トルク 3.88kg/7500rpm
燃料タンク 12.5l
昭和42年に発売されたソニーの世界初の超小型ICラジオ,ICR-100の広告写真です。製品がレトロなデザインです。思わず欲しくなってしまいます。
電子回路を集約してボディの重量は90g。なんとバッテリは充電式のニッカド電池で、1回14時間の充電で約6時間の連続使用が可能。SONYはすごいですね。よく見るとこの小さなボディにスピーカーが入っているのが分かります。定価9,800円。
真空管ラジオが鎮座していた昭和20年代。その後トランジスタラジオができ,そしてICです。東京オリンピックから3年。日本全体が大きく発展していた時代の産物です。
そして,今やだいたい同じ相対価格でワンセグラジオが買える世の中になりました。こちらは107g。
小学校の頃にあるお店で買ったであろう切手です。昭和のデザインだと思います。この切手は40年近く私の切手帳で眠っていたのです。
祖父の刻みタバコはたしか「ききょう」だったと思います。それを買いに行くのはほとんど私の仕事でした。当時でも,刻みタバコをおいてある店はそんなには多くなく,少し遠くのたばこ屋さんまで自転車をこいで買いに行きました。
古い家の一角を改造してたばこ屋をしているそのお店は切手も販売していました。時々,記念切手などが残っていると,白髪の綺麗なおばさんがそれを見せてくれます。気に入ったものがあると,それを取り置いてもらっておき,数日の小遣いを貯めて,受け取りに行きました。もちろん一枚だけです。
ややもすると,お金持ちの家の子は,発売される記念切手をすべてシートで買い,みんなに見せびらかしていたりしました。信じられなかったですね。切手をシートで買えるなんて・・。切手帳のページをめくるたびにバサッバサツと風を切る音がするのですから。そんな子どもにとっては,この写真の切手なんて多分屑にしか見えなかっただろうと思います。
刻みタバコと一緒に買った切手を汗で濡れたポケットに入れてしまったのか,それとも途中で夕立にでも降られて濡れてしまったのか,どうしてこんなに皺になったのか,今ではもう分かりませんが,私はこの皺だらけの切手が大好きです。
昭和の時代には何にでもふりかけた思いが残る味の素。昭和レトロなデザインの缶です。真ん中のお母さんがいいですね。ふりがなが「あぢのもと」となっていますから,昭和20年代のものでしょうか。

明治41年東京帝国大学教授の池田菊苗博士が,出汁昆布のうま味の正体がグルタミン酸であることを突き止めたことからうま味調味料の歴史は始まります。そしてその翌年には味の素が発売されたというから驚きです。
突然ですが,疑問があるのです。味の素とハイミーはいずれも味の素株式会社の製品ですが,違いは何なのでしょうか。味の素のページを見ると丁寧に答えが載っていました。
うま味調味料「味の素®」は、昆布のうま味に代表されるグルタミン酸ナトリウムに2.5%の5'―リボヌクレオタイドナトリウム(しいたけやかつお節のうま味成分)を配合したものです。食材のおいしさを引き立てたり、料理の味をととのえる基本的な調味料として、下ごしらえから仕上げまで味の補いとしてあらゆるメニューにお使いいただけます。
「うま味だし・ハイミー®」は、前出の5'-リボヌクレオタイドナトリウムが8%加わり、うま味調味料「味の素®」よりうま味が強く、かつコクがあります。「うま味だし・ハイミー®」は、汁物や煮物のだしとして、お使いいただけます。中華でもこってりとした料理やとろみのあるスープ、味噌を使った料理、野菜をじっくり煮込む料理、吸物、酢によく溶けるため酢の物の調味などに適しています。
「うま味だし・ハイミー®」の方が少量でうま味をきかせることができます。
むむむ・・・少しだけ分かったような夏の夜
この機械を見てかっこいいと思う人は少ないのでしょうか。いい味を出していると思います。機能のために磨き上げられたデザイン。昭和レトロなポン菓子機です。
「パットライス」私たちが子どもの頃はこう呼びました。しかし「ポン菓子」「ドン菓子」と言う地域が多いようです。
近くの遊園地にだいたい日と時間を決めてやってきていたポン菓子屋のおじさん。遊園地の中にリヤカーで引っ張ってきた機械を据え付け,鐘を鳴らす。何故だったのか,私たちにはパットライスのおじさんが来たことが分かっていた。母親にお米をもらって遊園地まで走る。ポケットには十円玉が入っている。
集まったお米を釜の中に入れ,釜を火であぶりながらゆっくりと回し続けていると,釜に付いた圧力計の針がじりじりと上がっていく。頃合いを見計らって,おじさんが軍手をした手に金槌を取ると,子供たちは両手の人さし指を自分の両耳に突っ込んで,知らず知らずに一歩二歩と後ずさりする。
緊張した一瞬。愉しかった。
ミッフィーは昭和30年生まれ。レトロでもないし,デザインを語る必要もないですね。今日,「ディックブルーナに学ぶモダンアートの楽しみ方」という展覧会を見に美術館に行ってきました。
ディックブルーナは1927年オランダ生まれ。父親が出版社を経営していたので,アムステルダム国立美術アカデミーに学んだ後、父親の会社の専属デザイナーとして本の表紙のデザインの仕事をしていた。そして,昭和30年に生み出したウサギの「ナインチェ・プラウス」(Nijntje Pluis:蘭)を主人公にした絵本が広く受け入れられた。この「ナインチェ・プラウス」が日本では「うさこちゃん」とか「ミッフィー」と呼ばれるようになったのです。「ミッフィー」は昭和35年にイギリスで英語版が出版されるときに付けられた名前です。福音館書店系の絵本では「うさこちゃん」,講談社系のものでは「ミッフィー」と呼ばれているようです。
ナインチェは小さくて愛らしいウサギ,プラウスはふわふわの意。
昭和40年代でしょうか。森永牛乳の販促グラスです。懐かしい昭和レトロなデザインだと思います。キャラクターの名前は「ホモちゃん」らしいですよ。牛乳が分離しないように乳脂肪分を均質化する「ホモジナイズ」という製造過程に由来しているそうです。
子供たちが脱脂粉乳と葛藤を続けている昭和30年代から40年代にかけて,学校でも牛乳が飲める日があった。必ず飲めるのは運動会の日である。運動会は春を「小運動会」秋を「大運動会」と位置づけて,一年に2度あった。この日は瓶の牛乳が飲めた。瓶牛乳が飲めるからか,運動会が楽しいからか,子供たちの顔は丸い笑みをたたえていた。
お空のもとに集まった
みんなみんな元気な子
鍛えた力を出しあって
今日は楽しい運動会 ♫
青い空の下で一生懸命に歌った「運動会の歌」
キャスキッドソン(Cath Kidston)の折り畳み傘です。ポップでどこか昭和レトロの匂いもするデザインです。素敵です。
折り畳み傘はドイツのハンス・ハウプトによって昭和3年に考案されました。日本での開発は昭和24年ごろのことらしいですが,折り畳み傘が日本で広まり始めたのは昭和30年代に入ってからのことです。まだ,下駄箱の端の部分に設えられた傘入れのスペースに番傘が一本入っていた頃の話です。
初めて見た折り畳み傘は父親が買ってきた黒色のものでした。昼間は学校が終わると独りだった小学生の私は,傘を包んだ黒いケースのボタンをそっと外し,傘を取り出してみました。そして,大きく広げてみました。家の中で畳に座って広げられた折り畳み傘の骨を,そしてその仕組みを,惚けたカッパのように眺めました。でも気がつくと,元のようにはうまく畳めません。力ずくで押し込まれた折り畳み傘のケースはパンパンに膨れていましたが,素知らぬ顔で夕ご飯を食べていた梅雨空の夜。除湿をしてくれる機械なんてなかった昭和の日です。
昭和36年発売のマーブルチョコレート。パッケージは当時のものの方が昭和レトロでいいデザインです。マーブルチョコは発売当時1個30円です。高いです。一日の小遣いでは買えません。自分で買えるとしたら,遠足に行くときくらいです。マーブルチョコレートの一気食いに憧れた昭和です。
マーブルチョコレートはまずセロファンを剥がし,蓋を「ポンッ」と音を鳴らして開け,チョコを食べる前に,まずシールの確認をしました。そこには鉄腕アトムのシールが入っていました。やがて,シールは「マジックプリント」という転写式のシールにかわりました。私たちは「マジックシール」と呼んでいました。教科書にマジックシールを貼るのには,どこか後ろめたい気持ちがありました。だから私はハーモニカのケースや冷蔵庫の扉にアトムのシールを貼ったことを覚えています。
先日買ってきたマーブルチョコレートの中身を開けてみました。シールも入っているし,蓋に隠れていて見えない容器の部分や,いくつかの粒にキャラクターが描かれていて,愉しいです。
今のマーブルチョコはキャラクターが変わってるんですね(当たり前ですが・・)。「マーブルワンちゃん」という7兄弟です。


