家庭の最近のブログ記事
昭和30年代の柱時計。何も持たなかった頃を思い出すデザインです。
私の家で、今も現役で動いています。ボーンボーンと時を報せます。でも不思議なことが一つ。柱時計はたとえば10時には10回時を打ち、10時30分には1回時を打ちますが、この柱時計は1時に12回時を打ちます。いつも傍にいるわけではないので、13回かもしれませんが・・。たぶん30分に一回打つのと、混同しないようにしているのかも知れませんが、謎です。
曇りの日は、心が少しどんよりします。そんなことも今まで忘れていたような気がします。雨だろうが、なんだろうが、オフィスで仕事をしていると天気など気にならなかった。でも、曇った日には、少し沈んだ気持ちになるほうが我に返ることができます。
あの頃、心が晴れていると、翌日も晴れになることが多かったような気がします。天気予報が、雨の予報を出していても、「絶対に晴れる」と断言できることがありました。昭和30年代は本当に天気予報が当たりませんでした。だから、子どもは夕方になると靴を足で放り投げて明日の天気を占いました。
「明日天気になぁれ」
昭和を思い出させる写真。子どものよだれかけのデザインと大きさに昭和の思い出が蘇ります。日本古写真保存研究会のご厚意によりお借りしました。
昭和の雰囲気の残る理容店です。三色の床屋のディスプレイデザインは16世紀にパリで生まれた。三色ねじり棒というらしいです。赤は動脈、青は静脈、白は包帯を表現しています。16世紀のヨーロッパでは、簡単な外科手術などを理容店でしていたようです。写真は以前にもこのブログでアップしたものです。
実は、今日散髪に行ってきました。日差しが強いので、水筒に冷たいお茶を入れ、ジーンズをはいて、クリーニングに出すシャツを手に持ち、玄関の鍵を閉めて250ccのスクーターに乗りました。お盆だからでしょうか、車も少なく10分ほどで理容店の前まで来たとき、・・・水筒を忘れたことに気がつきました。まさか、家まで帰るわけにもいかないので、そのまま散髪を始めたのですが、驚いたことに、散髪の途中で、理容店の奥さんが冷たいお茶を出してくれたのです。私はその理容店に10年以上通っていますが、お茶を出してもらったのは今日が初めてです。不思議なものです。昭和の時代、幼い頃はもっとたくさん不思議なことが起きていたような気がします。
金鳥の蚊取り線香。昭和レトロなデザインは今でも続いています。
蚊取り線香と蚊帳は昭和の夏には欠かせないものでした。エアコンなんてないので,夏の夜は窓を開け放さないと生活ができません。
昼間から庭に金盥を出して水を入れ,夕方には少し暖かくなった水をたたえた盥の中に座り込んで行水をしましたが,夕食が終わる頃にはまた汗をかいています。夜の縁側で団扇を煽ぎながら涼を取っていると,蚊にやられます。だから,あらかじめ縁側では蚊取り線香を焚いておきます。
そして,そろそろ寝るかという頃になると,畳の部屋に蚊帳を吊って,蚊がついてこないように素早く蚊帳の裾から潜り込みます。団扇を煽ぎながら浅い眠りを繰り返した夏の夜。
今年の夏ももう終わりますね。
昭和のミシンはこんなふうに電球をオプションでつけていました。レトロです。針先を明るくするための策です。デザイン的にも似合っていると思うのは私だけでしょうか。
あの頃は,小学校の先生から雑巾を作って持ってくるようにいわれました。学校も予算がなかったのでしょうか。大抵は使い古したタオルや手拭いをミシンで縫って持っていくのが常でした。そして,その雑巾で教室や廊下の掃除をします。木造の床はトゲが出ていたりしているので,雑巾をかけているときに指にそのトゲが刺さることはよくありました。トゲが奥深く刺さって取れないときは,裁縫の針先をマッチの火で焼いて,針先で掘り出しました。それくらいのことでは赤チンは使わなかった気がします。
「brand new rocket」の置き時計です。古いものではないですが,文字盤が優しくて少しレトロっぽく,綺麗なデザインです。理容店の大きな鏡の脇の飾り棚においてありました。
昭和の時代,自分で床屋に行きたいと思ったことはなかったような気がします。子どもの頃はあまりに髪が伸びてくると,親に床屋に連れて行かれ,親は床屋のオヤジさんに代金だけ払って私を放置して帰りました。あの頃の床屋は混んでいることが多く,待つ間にたくさんの漫画が読めました。昭和40年代,「少年マガジン」「少年サンデー」「少年キング」の三冊はどうにかして読みたかった。だから,近くの貸し本屋さんにも通いましたし,遠くの図書館まで自転車を漕ぎました。漫画雑誌を買うなんて考えもしなかったあの頃です。
目薬をさして,容器を見ていると,その中にある泡が何だか綺麗に見えてしまいました。昭和レトロではないけれど,青いロゴと泡がいいデザインだと思って撮影。日本では江戸時代から売られていた目薬。明治31年,田口参天堂が「大學目薬」を発売。その後昭和に入ってロート製薬と参天製薬がしのぎを削ることになる。
ロート製薬はテレビCMでイメージアップを図りました。昭和51年から始まった,あの「クイズダービー」のスポンサーになったのが大きかったのではないでしょうか。番組前にロート製薬の歌が入りました。「ろーと,ろーと,ろーと。ろーと,ろーと,ろーと。ロート製薬〜」です。
参天製薬は「サンテドウー」という目薬が流行りました。フランス語で「目の健康」という意味です。うまく参天製薬と引っかかっていますね。
ちなみに写真のアイリスネオは大正製薬のものです。
いずれにせよ,昭和30年代に少なくとも子どもの身辺に目薬はなかったような気がします。目が痛かったりすると,とりあえず水で洗って終わり。それで良かった昭和です。
昭和を思い出す「改源」のデザインです。このデザインは,湯飲み茶碗とそれを受ける茶托をイメージしたもので,改源は昔は「お茶でも飲める風邪薬」をキャッチとして販売しており,はっきりとした経緯は不明ですが、お茶でも飲めるという意味をこめて湯飲み茶碗にしたものと推測されます。これは,株式会社カイゲンにお尋ねして教えていただきました。
現在の用法には
「茶湯または湯水で服用してください」とあります。
改源の発売は大正13年。昭和40年には長崎出身の作詞家,藤浦洸を起用してテレビ宣伝を開始。昨年はたしか,デーモン小暮を起用していたはずです。藤浦洸さんといえば NHKの「私の秘密」で回答者として活躍されていたのを覚えています。正直な人だなと感じました。作品としては「別れのブルース」「チャイナ・タンゴ」「水色のワルツ」「河童ブギ」「悲しき口笛」「私は街の子」「東京キッド」「りんご園の少女」などが有名です。
淡谷のり子さんの「別れのブルース」では,「BLUES」についての発音が「ブルース」であるのか「ブルーズ」であるのかが話題となることがあります。初期には「ブルーズ」と歌っていたようですね。
昭和40年代初めでしょうか。キリンビールのレトロな灰皿です。懐かしいデザインです。ビールと言えばキリンビールだった時代です。
お使いに行かされたのは,小学生の頃。夕方になって,母親が一升瓶の中の日本酒の残りが少なくなっているのに気付いたとき。いつも五合瓶を買いに行かされました。
踏み切りを渡り,小さな路地を抜けたところに酒屋がありました。小さな酒屋には木でできたカウンターがあって,まだ外は明るいというのに,いつも一人か二人のおじさんが,小皿の上の透明のグラスになみなみと注がれたお酒を,こぼれないように気をつけながらすすっていました。そのカウンターの上に置かれていたのがこの灰皿です。

私は二級の五合瓶を両腕で抱えるようにして,来た道を戻ります。恐れたのは,途中で知らない犬に会うことです。あの頃は野良犬がまだたくさんいました。犬に噛まれることなど珍しくありませんでした。私は五合瓶を抱えたままでは野良犬から逃げきれないと思っていました。さらに顔見知りの野良犬の中にもたいそう性格の悪い奴が何匹がいました。そいつに会うと,私は知らぬふりをしてきびすを返し,遠回りして帰らなければなりませんでした。お使いに行かされて,二回のうち一回は遠回りしなければならなかった帰り道です。
昭和のリトルナースがレトロなデザインです。メンソレータムのロゴの入った缶の蓋を撮影しました。リトルナースのモデルがシャーリーテンプルだということは有名です。このデザイン大好きです。
シャーリーテンプルはハリウッドの有名子役で,ほかにも日本でキャラクターとして使われています。昭和9年に発売された,不二家のフランスキャラメルがそれです。
リトルナースをデザインしたのは神戸の商業デザイナー,今竹七郎さん。今竹さんは輪ゴムのオーバンドのパッケージ、関西電力の社章,そして南海ホークスの鷹のマークなどをデザインされています。
(08/07/18 コメントをいただいた方のおかげで,リトルナースのモデルがシャーリーテンプルではないことが判明しました。)
文句を言わせない昭和のデザインですねぇ。この男の子のネーミングが,なんと,「坊ちゃん」です。ひねりはありません。「坊ちゃん」です。ある意味すごいです。ある意味レトロです。さらに・・夏目漱石の「坊ちゃん」からとったそうです。・・・。そのままです。やはりすごいです。
これは「釜出し一番石鹸」この石鹸,もらいました。原材料は牛脂とヤシ油だそうです。牛とヤシですよ。こだわってます。仙台で大正時代からこの石鹸を作り続けているそうです。頑固です。いいですね。
楽天を見ると,売れているようです。レビューもたくさんあります。
昭和を代表する桃マッチ。懐かしいデザインです。子どもの頃,マッチは日常的に使いました。小学校の先生がマッチのすり方を教えてくれたのを覚えています。インスタントラーメンを作るとき,五右衛門風呂を沸かすとき,蚊取り線香をつけるとき,庭でゴミを燃やすとき,花火をするとき・・。
そういえば,子どものおもちゃとして,2B弾というものがありました。これは火をつけるのにマッチを必要としません。石やコンクリートにすり付けるだけで着火します。鉛筆くらいの大きさで,火をつけると黄色い煙がモウモウと出ます。そして30秒位して爆発します。黄色い煙が出ている時に手で持ち,友達を追いかけて走ります。爆発する頃合いを見計らって投げつけます。頃合いを誤ると自分の手の中で爆発します。手が火薬で黄色くなります。この2B弾の優れているところは水の中でも消えないことです。水の中でも黄色い煙を勢いよく吐き出した後に爆発します。荒っぽい遊びが日常だった昭和です。
2B弾を道具にして「忍者部隊月光」ごっこもしました。
これが何だかご存知でしょうか。昭和のものです。不思議なデザインです。
実は,この道具,何に使うのか正確なところは私も知りません。ただ,病院関係から出てきたものです。
昭和の時代,まだ子どもの頃,町の医院では,薬は窓口で調合していました。飲み薬は天秤で粉末の量を量り,何種類かの粉末を混ぜて,それを小分けに紙で折り畳んで一回分を作ってくれました。そんな時代に,捻挫などしたときには,湿布も窓口で作ってくれました。
私はこの道具は,いわゆる「膏薬」を作るときに使ったものではないかと思います。この道具のタイル質のところで膏薬を練るのではないでしょうか。そして,できた膏薬をこれまた少しずつネルのような布に塗り付けてその上から透明のビニールを載せ,一回分が出来上がりです。この道具,よく見ると左右対称ではありませんよね。タイルの下に木がない部分があります。ここから膏薬をネルの上に取り分けるのです。違いますかね〜。
これは私の推測です。多分当たっていると思いますが定かではありません。
昭和の時代に万能薬だと信じていたものの一つが赤チン。擦り傷は日常だったあの頃,膝小僧には,いつもまぁるく日の丸のように赤チンが着いていたような虚ろな記憶さえある。
それに比べて,子どもたちはヨーチンを恐れていた。ヨーチンは赤チンの何倍も染みるのである。塗ったあとすぐにフーフーと息を吐きかけ,うちわで煽がないと堪えられなかった。だから,みんな赤チンが好きだった。
赤チンの正式名称はマーキュロクロム液という。赤チンは昭和48年ごろ,製造工程で発生する水銀の問題から発売中止になったが,現在は海外で製造した原料を輸入して販売されている。

子どもの頃はよく熱を出した。熱も8度を越えると学校を休み,布団の中でぼーっとして一日を過ごした。退屈だったことだけを覚えている。
その音はだいたい午後3時頃に聞こえてくる。火照った額に水で絞ったタオルを乗せて天井の木目や節が造る絵模様を眺めていると,遠くから聞き覚えのあるエンジンの音が近づいてくる。次第に大きくなっていくその音は家の前で止まる。森岡医院の先生がやってきたのである。先生は私の脈を取り,体温計を確認し,黒い鞄から銀色に輝くケースをとり出す。その中にはあの注射器が入っていることを私は知っている。ガラスの注射器に針を付け,アンプルの先を折り,注射器の中に吸い込んだ透明の液体を針先からピュッと押し出す。
そういえば「三丁目の夕日」の宅間先生はラビットに乗っていました。昭和21年から43年まで富士重工業が生産したスクーターです。下のラビットは宅間先生のラビットではないですが,レトロで素晴らしいデザインです。
今でも富山の置き薬は健在だし、ケロリンはヒットを続けている。それにしてもケロリンのレトロなデザインは強烈です。
昭和30年代。年に一度だったか、半年に一度だったか、大きな行李を風呂敷きで包み、それを背負って我が家を訪ねてくる男がいた。母が水屋箪笥の中から四角い箱を持って玄関に出ると、その中身を手際よく数えて、行李からとり出した薬を詰めていく。私はその指先の素早さにいつも驚いたが、目の端には行李の中の紙風船をしっかりととどめていた。
部屋の中でつく紙風船。電傘を揺らして埃を落とし、いつも叱られた。
ケロリンの類似商品を集めたページがあります。
